「霊魂」は、身体を離れた何かなのか|第18回 綜医學講座「綜医學の原理と『大和言葉の霊魂観』(其の一)」講義レポート

「霊魂」と聞くと、身体の中に宿っている、目には見えない何か。
人が亡くなったあとも残るもの。
あるいは、幽霊や死後の世界を思い浮かべる人もいるかもしれません。
しかし、講義の冒頭で示された「ミタマ」は、こうした一般的な霊魂のイメージとは違うものです。
ミタマとは、身体のどこかに入っている何かではなく、
肉体と精神が一つになって生きている、その生命体そのものを指します。
「精神、肉体が一元となった一個の生命体、生き生きと活動している生命体そのものがミタマである」
そんな説明から、講義が始まりました。
そして、この「霊魂観」は、前回学んだ「超人観」ともつながっています。
自分に与えられた力を、どこまで生かして生きるのか。
そのためには、そもそも「自分という生命」を、どう捉えるのか。
第18回は、これまで綜医學講座で学んできた生命観、物心論、言語観、超人観、そして「手当て・言の葉・長息」という実践が、綜関図として一つの図の中につながっていくような講義となりました。
ミタマとは、「目に見えない何か」ではない
講義資料には、今回の霊魂観について、
「身心一如の生命体論を『霊魂観(ミタマ)』という」
と記されています。
さらに、
「ミタマは霊魂・御霊・御魂と書かれるが、身玉・実玉であることに注目せよ」
とあります。
ここが、今回の講義を理解する最初の鍵となりました。
「ミ」は、身体の「身」でもあり、食べ物の「実」でもある。
物事を成り立たせている本体、本質。
それが「タマ」となってまとまっている。
だからミタマとは、身体とは別のところに存在する透明な何かではなく、
自分という生命そのものだというのです。
私たちは普段、「身体」と「心」を分けて考えることが一般的です。
身体の不調なら身体を診る。
心の問題なら心を見る。
しかし、林先生は、
「肉体を見ていったら精神が見えてくるし、精神を表現しようと思ったら肉体が必要なのであって、本来一体です」
と話されました。
身体だけでもなく、心だけでもない、身体と心を分ける前の、一つの生命。
それを大和言葉では「ミタマ」と捉えるのです。

肉体はアラミタマ、精神はニギミタマ
一つのミタマを、二つの側面から見る。
そのとき、講義では、
肉体をアラミタマ(荒魂)
精神をニギミタマ(和魂)
と説明されました。
講義資料にも、
「肉体はアラミタマ(荒魂)、精神はニギミタマ(和魂)、両者一元となってミタマとなる」
とあります。ただし、これは肉体と精神を二つに分解するためではありません。
林先生は板書に二つの勾玉を描きながら、
「本当は一つです」
と繰り返されました。
肉体と精神という二つの実体があって、それを後から合体させるのではない。
もともと一つの生命を、説明のために二つの面から見ている。
ここが重要です。
「表観」と「裏観」
その見方を示す言葉として登場したのが、表観(ひょうかん)と裏観(りかん)でした。
目に見える身体、表に現れているものを見るのが「表観」。
その人の心や精神など、直接目には見えない側から見るのが「裏観」。
しかし、この二つも完全に分離しているわけではありません。
顔色や姿勢、声、動きを見れば、心の状態が感じ取れることがあります。
反対に、精神的な緊張や喜びが、表情や身体の状態として現れることもあります。
だから林先生は、
表観と裏観は「相互乗り入れ」である、と説明されました。
一人の生命を、表と裏の両側から見る。
これは綜医學がこれまで繰り返してきた「物心一如」「身心一如」という考え方そのものでもあります。
知・情・意もまた、ミタマの働き
今回の板書では、アラミタマとニギミタマの下に、
「知・情・意」
が描かれました。
それぞれ、
知=クシミタマ(奇魂)情=サキミタマ(幸魂)意=マミタマ(真魂)
と説明されます。
知――クシミタマ
「ク」には、汲む、組む、包むなど、取り入れ集める働き。
「シ」には、一つにまとめ、統一する働き。
さまざまな知識や経験を取り入れ、自分の中でつなぎ合わせていく。
それが単なる知識ではなく、
自分自身の「知恵」になっていく。
その働きをクシミタマとして説明されました。
情――サキミタマ
感情は、とても細やかなものです。
ほんの一言で深く傷つくこともあれば、
たった一言で、もう一度立ち上がれることもある。
講義では、人生を終わらせようかと思い詰めていた人が、
「先生が君のことを褒めていたよ」
という友人の一言によって思いとどまったという話も紹介されました。
繊細でありながら、強い。
人を動かす力を持つ。
それが「情」の働きとしてのサキミタマです。
意――マミタマ
そして「意」。
ここで問われるのは、自分は、どう生きるのか。
何のために生きるのか、誰のために生きるのか、その意思、決意、志を表すものがマミタマです。
林先生は、マミタマが「マカタマ」に通じるという大和言葉の読み解きも紹介されました。
勾玉を単なる装飾品やお守りとして見るのではなく、「己の中に意思を宿す象徴」として捉えるのです。
知・情・意が整い、一つの生命として働く。
ここにも、綜医學の「綜合する」という考え方が現れています。
前回の「超人観」と、今回の「霊魂観」は一つにつながっている
第17回 綜医學の原理と「大和言葉の超人観」では、
「自分の持つ可能性を、極限まで開発させている人」として「超人」を学びました。
今回、林先生はその続きとして、
「超人観と霊魂観というのは、一つにつながっている」
と話されました。
では、何を最高度に発揮するのか。
今回の言葉で言えば、己のミタマということになります。
知識だけを増やすのではなく、身体能力だけを高めるのでもなく、感覚だけを鋭くするのでもない。
身体、精神、知、情、意。自分という生命全体を磨いていく。
そして、自分に与えられた天性・天分を、できる限り発揮する。
そう考えると、前回の「超人観」が、今回の「霊魂観」によってさらに土台から説明されたことが分かります。
生命の中心を司る「イクタマ」
では、この生命全体をまとめている中心は何なのでしょうか。
それが、イクタマ(生魂)です。
林先生は講義の中で、
「いかにイクタマを働かせるかというところに、綜医學の肝がある」
と語られました。
つまり、部分的に身体の状態を整えることだけが目的ではなく、生命全体が一つにまとまり、本来持っている働きを発揮できる状態へ近づいていく。そこに、綜医學における健康の根本を見るのです。
講義ではさらに、イクタマを「直霊(ナホヒ)」の発展として捉える生命観も紹介されました。
直霊から素粒子、原子、分子、そして生命へ。
その中心を統制できるところまで発展した直霊がイクタマである、という河戸国学の世界観です。
重要なのは、その奥にある問いでしょう。
生命は、単なる部品の集合なのか。
それとも、その全体をまとめ、生かしている「中心」を持つものなのか。
綜医學は後者から、人間を見ようとしています。
「人が死ねば、なぜ悲しいのか」
今回の講義では、「霊魂観」というテーマだからこそ、
死についても真正面から問いが投げ掛けられました。
講義資料には、
「人が死ねば悲しいのはなぜか?」
とあります。
そして、
「二度と会えないから」
「同じ人間として生まれ変わることは無い」
「生まれ変わらないからこそ、命は掛け替えのない大切なもの」
と続きます。
林先生は、
「生まれ変わらないからこそ、命はかけがえのない大切なものだ」
と話されました。
死後の世界については、
「あるとも言えるし、ないとも言える」
という曖昧さについて、かなり時間をかけて語られました。
幽霊を信じていなくても、お墓参りには行く。
死んだら終わりだと思いながらも、ご先祖に手を合わせる。
新しい車を買えば、お祓いを受ける人もいる。
日本人は昔から、目に見える世界と目に見えない世界を、完全に切り離さず生きてきました。
林先生は、
「あると思う人にはある。ないと思う人にはない」
という表現も使われました。
断定はせず、かといって、最初から全否定もしない。
その間に立ちながら、人間が長い歴史の中で感じてきたものを考えてみる。
これも今回の霊魂観の大切な部分だったと言えます。
死後に残るのは「肉体を離れたミタマ」ではなく「念子」
ここは、今回の講義で特に整理しておきたい部分です。
講義資料では、
「肉体を離れた霊魂など無い(念子や念子体はあるが)」
と明記されています。
つまり、ミタマを「肉体から抜け出して死後も浮遊するもの」と捉えているわけではありません。
生きている間に、何かを強く願ったり、志を立てたり、あるいは、誰かに伝えようとしたことがあったり、やり残したことがあったりした。
そうした精神活動が、何らかの形で「念」として残り得るのではないか。
林先生は、それを「念子」「念子体」という言葉で説明されました。
先人の思想や志が、時代を越えて後世の人に影響することもあります。
直接会ったことのない人物の本を読み、「この人の続きを自分がやりたい」と思う。
その瞬間に、先人の志が、後世の人の生命の中で再び動き始める。
そう考えると、「何を残して生きるのか」という問いにもつながります。
身体はいつか終わる。
しかし、自分が生きたことによって生まれた言葉や志や仕事が、誰かの中で続いていくことはある。
霊魂観の話は、死後の世界について考えるだけではなく、
今をどう生きるのかという問いにもつながっていました。
『古事記』の黄泉の国から考える「表観」と「裏観」
今回の講義では、『古事記』の伊邪那岐命・伊邪那美命の黄泉の国の物語も取り上げられました。
火の神を生んだことで伊邪那美命が亡くなる。
深く悲しんだ伊邪那岐命は、妻を取り戻そうと黄泉の国まで追いかけます。
林先生は、この場面を「裏観」の世界へ深く入り込んでいく姿として読み解かれました。
思い出の中では、その人はまだ生きている。
声も顔も浮かんでくる。
だから、亡くなったことを頭では分かっていても、心ではなかなか分からない。
しかし黄泉の国で、伊邪那岐命は伊邪那美命の亡骸を目にします。
ここで、現実を「表観」で見て、亡くなったという現実に戻る。
そして黄泉の国から逃れ、最後に禊を行い、天照大御神の誕生へとつながっていく。
今回の講義ではこの神話が、
「裏観だけに入り込み続けるのでもない」
「表観だけで人間を割り切るのでもない」
という生命の見方として読み解かれていました。
表と裏。肉体と精神。
見えるものと、見えないもの。
どちらか一方だけではない。
この構造が、講義のさまざまな箇所に繰り返し現れていました。
沖ヨガ――「治す力は内にある」
後半では、沖正弘先生のヨガ思想へと話がつながりました。
私たちは、痛みや熱、咳、疲れなどが出れば、「早く消したい」と思います。
一方、沖ヨガでは、身体が行うさまざまな反応を、「生命が自らを調整しようとしている働き」として見る考え方が紹介されました。
背伸びをすること、あくびをすること、ため息をつくことなど、無意識に行っているこうした動きを観察すると、身体は、私たちが意識する前から、自分で調整を続けています。
だからこそ、自分の生命が何を要求しているのかに気づくことが大切であり、そこから、自分に必要な運動や休息、養生法を探していくことが大切なのだということでした。
「自分に適し、自分に必要なものだけが、自分にとっての薬」というのが沖ヨガの考え方です。
なぜスポーツも武道も「綜合」が大切なのか
この生命観は、スポーツや武道の話にもつながりました。
一つの競技で記録を伸ばそうとすれば、どうしても同じ動きを繰り返します。
競技能力を高めるためには必要なことですが、一方で偏りも生まれます。
沖ヨガでは、さまざまな運動を総合的に行い、
全身的に発達することが大切だと説かれていました。
林先生は、昔の武芸道場にも触れられました。
剣術、柔術、槍術など、さまざまな技を学ぶ。
一つの能力だけを極端に伸ばすのではなく、全体として人間を鍛える。
ここにも、「綜」という考え方があります。
全体を見ながら、自分に必要なものを見つける。
第18回は、なぜ「綜医學」という名前なのかが、改めて見えてくる講義でもありました。
「身密・口密・意密」を、身体で実践する
今回の板書では、綜医學の実践も三つに整理されました。
身密・口密・意密です。
身密では、身体を使う。
手当て、五音体操、アッパレ踊りなど。
口密では、言葉と呼吸を使う。
「ありがとお~」と長く声を出すこと、長息、密息。
そして意密では、何を考え、何を大切にし、どのように生きるのかという「意」を整えていく。
実習資料には、手当て、ナヤユヨ言霊法、密息、氣合い呼吸法、アッパレ踊り、五音呼吸法、笑いの行法、そして三密「ありがとお~呼吸法」などがまとめられています。
最後の「ありがとお~呼吸法」では、
身密=合掌
口密=「ありがとお~」という言葉
意密=感謝
が一つになります。
声を出し、呼吸し、身体を使い、意識を向ける。
三つを一つにする。
これは今回の「ミタマ=身心一如」という講義内容を、そのまま身体で確かめる実習とも言えるでしょう。
綜医學の全体像が、一本につながってきた
第18回の講義を振り返ると、これまで学んできた内容が、一つの構造の中につながってきたことに気づきます。
物と心を分けない「物心一如」。
身体と精神を一つの生命として見る「身心一如」。
言葉を通して日本人のものの見方を探ってきた「大和言葉の言語観」。
自分に与えられた力を最大限に発揮して生きる「超人観」。
そして今回、
「その生命そのものとは何か」
を扱った「霊魂観」。
その中心に置かれたのが、ミタマ=生きている自分そのものという考え方でした。
そしてミタマの中心に、イクタマがある。
知・情・意が働く。
身体と精神が働く。
呼吸し、動き、考え、感じる。
それらはバラバラに存在しているのではなく、一人の生命の中でつながっています。
自分の「ミタマ」を、どう生かしていくのか
今回の講義は、「霊魂はあるのか、ないのか」ということではなく、
今、ここに生きている自分という生命を、どう生かしていくのかという問いです。
何を学ぶのか。
何を感じるのか。
何を大切にするのか。
どんな志を持つのか。
身体をどう整えるのか。
誰に何を残すのか。
前回の「超人観」では、自分の可能性をどこまで発揮できるかを学びました。
今回の「霊魂観」は、その「自分」とは何なのかを、さらに根本から問い直す講義だったように思います。
身体も自分、心も自分、知も情も意も自分。
その全体が一つとなった生命を、どこまで生かして生きるのか。
「己のミタマを、最高度に発揮する」
前回から今回へと続く学びは、最後にはこの問いへ戻ってくるのではないでしょうか。
第18回綜医學講座は、これまで18回にわたって学んできた綜医學の全体像が、少しずつ一つにつながって見えてきた講義となりました。
綜医學講座について
綜医學は、心と身体を部分に分けず、一つの生命として捉えることを基本とします。
東洋日本の思想、大和言葉、医学思想、空海の思想などを学びながら、「手当て・言の葉・長息・長生き」という実践を通して、自分自身の生命と向き合っていきます。
目指すのは、自分や家族の健康だけではありません。
人に手を当て、組織に手を当て、社会に手を当てる。
そして、ひいては国に手を当てる。
「国手」として、自分の生命をより大きな働きへ生かしていくことも、綜医學講座が目指す方向です。現在の講座案内でも、綜医學を「心身を部分ではなく全体として捉える医学」と位置づけ、「国手」を目指す学びとして紹介しています。
次回、第19回綜医學講座(2026年10月25日)では、
「綜医學の原理と『大和言葉の霊魂観』(其の二)」
として、今回の霊魂観をさらに深めていきます。(▶︎講義日程及び詳細)
今回初めて綜医學を知った方も、ぜひ前回までの講義レポートとあわせてお読みください。
▶ 国手とは
▶ オンデマンド受講
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