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「自分にはここまで」と、誰が決めたのか|第17回 綜医學講座「綜医學の原理と『大和言葉の超人観』」講義レポート

  • 22 時間前
  • 読了時間: 13分

「自分には、これくらいしかできない」


私たちはいつから、そう決めるようになったのでしょうか。

年齢なのか。経験なのか。才能なのか。体力なのか。

あるいは、これまで生きてきた中で積み重なった「自分はこういう人間だ」という思い込みなのかもしれません。


第17回綜医學講座で取り上げられたのは、「超人」という人間観です。

超人と聞けば、常人にはない特殊な能力を持つ人や、歴史に名を残す天才を思い浮かべるかもしれません。


しかし、林英臣先生が今回の講義で示された「超人」は、決して一部の特別な人だけの話ではありませんでした。


「ないものを身につけようというんじゃないんですよ。もともとあるものを、いかに生かすか。それも極限まで生かすということが大事である」

今回の講義を貫いていたのは、

「人間には、まだ使い切っていない可能性があるのではないか」という問いでした。


綜医學講座第17回で解説された大和言葉の超人観の板書と林英臣氏
第17回綜医學講座「大和言葉の超人観」で講義する林英臣先生

この記事でわかること


  • 綜医學でいう「超人」とは何か

  • 「全体を見る力」「将来を見る力」「サトリ」と超人観の関係

  • 超人観と「修理固成」「国手」がどうつながるのか

  • 手当て・言の葉・長息という実践と超人観の関係


超人とは、特別な能力を持つ人なのか


講義資料では、超人について、

「自分(人間)の持つ可能性を、極限まで開発させている人」

と示されています。


林先生は、そこで「天性」「天分」という言葉を用いました。

天から受けた自分の個性。自分に与えられた持ち分。


人によって、それは違います。

芸術に秀でる人もいれば、経営に力を発揮する人もいる。

教育、政治、医療、研究、ものづくりなど、それぞれの世界に、その人だからこそ発揮できるものがある。


つまり、超人になるということは、誰か別の人間になろうとすることではありません。

自分に足りないものを、次々と外から付け加えていくことでもない。


自分にすでに与えられているものを見つけ、それを磨き、生かし切っていくこと。


林先生の語る超人観は、そこから始まります。


一方で林先生は、戦後の教育や社会について、平均的な能力が重視されてきたとも語られました。


飛び抜けすぎず、足りなすぎず、すぐに組織の中で役に立てる人材を育てる。


講義では、そのような教育には、当時の成長経済を支えるという意味で一定の合理性もあったのではないか、という見方が示されました。


けれども、それだけでは、一人ひとりが自分の個性を極限まで磨いていくような人間の育ち方は生まれにくい。

では、私たちは本当に、自分の可能性を十分に使って生きているのでしょうか。


「5分でやれ」と言われたら、人間はどこまで動けるのか


今回の講義で印象に残ったのは、林先生が若き日を過ごした沖正弘先生のヨガ道場での体験談です。


当時21歳ほどだった林先生は、静岡県三島市にあった沖ヨガの道場で約1年間を過ごし、研修生として多くの受講生をまとめる役割を担っていました。


ある日、数十人の受講生への鍼をようやく打ち終えた、その瞬間。

沖先生から伝令が来ます。

「今から5分後に全員、大広間に集めろ」

質疑応答会を始めるというのです。


鍼を抜かなければならない。

別の場所で行法をしている人もいる。

台所にいる人、出かけている人もいる。

全員の所在を確認し、集め、総員と現在員を報告しなければならない。


普段なら30分ほどかかる仕事だったといいます。

それを「5分でやれ」と言われる。

結果、5分ではできませんでしたが、10分ほどでできた。

林先生は、その経験をこう振り返られました。

「5分でやるという思いでやったらね、10分でできるんです」

最初から「30分かかる」と思っていたら、30分かかったかもしれません。

「そんなことはできない」と考えたら、その時点で身体も頭も、それ以上の働きをしなくなるかもしれません。


沖ヨガ道場では、あえて通常では考えられないような課題を与え、人間がそれまで出したことのない力を引き出すような鍛錬が繰り返されていたといいます。


当時の林先生は、沖先生を「おかしな人だ」「変な人だ」と感じていたそうです。

ところが後になって、その意味が分かってきた。

「できない」と思っている境界の、その少し先へ人を連れていく。

それが教育だったのだ、と。


林先生は、この沖ヨガ道場について、

「超人育成を目指してたのが、本当は沖ヨガ道場なんですよ」

と語られました。


超人とは、突然、特別な能力が発現する人ではない。

自分でつくってしまった限界を、一つずつ超えていく中で育っていくものなのではないかと感じるお話でした。




超人は、何を見ているのか


講義では、超人の能力そのものだけでなく、「どのような視点から世界を見るのか」についても語られました。

そこには、空間を広く見ることと、時間を遠く見ることという二つの視点があります。



超人が見るのは「部分」ではなく「全体」


講義では、超人の一つの特徴として、

「全体構想を練られる者」

という言葉が挙げられました。


部分を見ることのできる人はたくさんいる。

一つの分野を深く掘り下げ、細かく分析することのできる人もたくさんいる。

しかし、

「その全体がどうつながっているか」

を見る人は、決して多くない。


講義では、聖徳太子、織田信長、坂本龍馬、小村寿太郎などが、歴史上の「全体構想者」の例として紹介されました。


個々の政策や一つの問題だけを見るのではなく、国全体、時代全体を見ながら、その先に必要なものを構想していく。

危機の時代ほど、この「全体を見る力」が必要になるというのです。



身体の一部分だけを見ない。

身体と心を分けない。

一人の人間だけを孤立して見ない。

人間が暮らす家族や組織、社会とのつながりも見る。


部分と部分をつなぎ、原点からの広がりを全体として捉え直す。


綜医學が単なる健康法にとどまらない理由の一つが、ここにあります。




「見えているところまでは、もう終わってるんですよ」


超人の「全体を見る力」は、空間だけではありません。

時間についても、お話をいただきました。


先を読むことについて説明する中で、経営者を例にして、

「経営者は遠く見てるんですよ」

と話されました。

そして続けて、

「見えているところまでは、もう終わってるんですよ。問題はそこから先なんですよ」

と。


まだ現実にはなっていない。

しかし、今の流れが続けば、やがてこうなる。


林先生は、それを「見えない世界とつながる」という言葉で説明されました。

ここでいう「見えない世界」は、必ずしも怪異的なものだけを意味するのではありません。


車を運転していて、まだ目的地は見えていない。

けれども、この道を進めば目的地に着く。


そのように、まだ目の前には現れていないものを、流れの中から感じ取ることでもあります。

林先生はまた、師である河戸博詞先生が「未来」という言葉をあまり好まれなかったという話も紹介されました。


「未来」は、未だ来たらざるもの。

それに対して「将来」は、まさに来るもの。


だから、ただ漠然と未来を想像するのではなく、

これから実際にやって来るものを見ていく。


そして超人は、将来だけを見るのでもないといいます。

過去にも長い時間軸を持つ。

「歴史に立っているんです」

歴史を踏まえ、その延長線上に将来を見る。

空間的には広く。

時間的には遠く。


そうした地点に立ったとき、それまで見えていなかったものが少しずつ見えてくる。

今回の「超人観」は、能力の高さの話ではなく、どこから世界を見るかという視座の問題でもありました。



鋭敏に感じ取ること――大和言葉の「サトリ」


大和言葉の超人観を考える上で、もう一つ重要な言葉として紹介されたのが、

「サトリ」でした。


林先生は、大和言葉の音義から「サトリ」を、

「サ=細やかさ・繊細さ」「トリ=取る」と読み解かれました。

つまり、細やかな変化を受け取ることが「サトリ」である、という捉え方です。


大きな変化が起きてから気づくのではなく、その前にある小さな変化を受け取る。


人の声のわずかな変化。

身体の小さな違和感。

場の空気。

自然の変化。

社会の流れ。


講義資料には、

「感覚・感性・感情を鋭敏にせよ」

と記されています。


林先生は、霊感や予知、テレパシーなどについても、自身の経験を交えながら語られました。


ただし、ここで大切なのは「勘だけに頼ればよい」という話ではありません。


林先生は、直感だけでも、客観的な証拠だけでも十分ではなく、

「ピンとくる」感覚と、それを確かめる客観的な事実の両方をつなぐことが大切だ

という趣旨を話されました。


感覚を磨く。

そして同時に、考える力も磨く。

この両方をつなげていくこともまた、超人への道だというのです。




超人観と綜医學は、どうつながるのか


ここまで見てきた「超人観」は、人間の可能性についての思想だけで終わるものではありません。


自分を何のために磨くのか。そして、心と身体をどのように磨いていくのか。ここから「超人観」と綜医學とのつながりが見えてきます。



人間は、何のために自分を磨くのか


では、自分の能力を高めて、何をするのでしょう。

人より優れるためなのか。あるいは、成功するためなのか。


今回の講義は、そこからさらに先へ進みました。


講義資料には、

「超人観は(己自身の)修理固成が結論(目的)」

とあります。


「修理固成(しゅうりこせい)」は、『古事記』冒頭、伊邪那岐命・伊邪那美命に国土の完成を命じる場面に現れます。


林先生は講義の中で、未完成の宇宙を「修め 理り 固め成す」こととして説明されました。

宇宙だけが完全で、人間だけが不完全なのではない。


人間も、世界も、生成し、発展していく。

だから人間もまた、自分自身を磨き、成長しながら、この世界の生成発展に関わっていく。


そう考えると、「超人になる」ということの意味も変わってきます。

自分だけが優秀になるためではない。

自分に与えられた力を十分に生かし、


その力を、何のために使うのか。


そこまで含めて超人観なのです。


綜医學が目指す「国手」も、その延長線上にあります。

国手とは、人の身体だけに手を当てる存在ではありません。


人に手を当てる。

組織に手を当てる。

社会に手を当てる。

そして、国にも手を当てる。


一人ひとりが持つ力を磨くことと、よりよい社会をつくることは、本来別々の話ではない。

今回の「超人観」は、そのことを考える講義でもありました。



心を磨くことと、身体を磨くことは別ではない


ここから、「超人観」と「綜医學」の関係が見えてきます。


講義資料には、

「超人観は、人体の生理を土台にした原理(生命原理)」

と記されています。


今回、林先生が繰り返されたのは、

身体だけでも駄目。心だけでも駄目。

ということでした。


肉体を鍛えることで心も変わる。

心を磨くことで身体のあり方も変わる。

物質と精神を別々のものとして扱うのではなく、本来一つの生命の異なる現れとして見る。


だから、超人への道も思想だけではありません。年齢に応じて身体を動かす。呼吸を整える。感覚を磨く。一つのことを繰り返し修練する。


林先生は、

「努力による積み重ね以外に、うまくなる方法はないんです」

とも語られました。


名人や達人も、最初から名人だったわけではない。

下手なときから人前に出て、恥をかきながら、繰り返し磨いていく。


そして武道のように、生涯にわたって修練を続ける。

「引退」というより、その年齢、その身体だからこそできる次の修練がある。

そう考えると、超人とは到達点ではなく、生涯続いていく方向性とも言えそうです。



手当て、言の葉、長息――思想を身体で確かめる


実習では、今回も綜医學の基本となる「手当て」「言の葉」「長息」を中心に身体を動かしました。

まず、自分自身への「手当て」。

手を擦り合わせ、指を揉み、頭、耳、首、肩、腕、胸、腹、腰、脚などへ順に手を当てていきます。

続いて「言の葉」では、ナ・ヤ・ユ・ヨの音が持つとされる働きを学び、「自然治癒力の歌」を皆で歌いました。


さらに今回は、沖ヨガで紹介された老化への向き合い方を踏まえ、足の親指や膝の内側、丹田を意識しながらツイストを行う実習も行われました。


会場では音楽に合わせて身体をひねり、林先生から、

「下手くそを恥じない。笑ってもらうためにやってると思って」

という声も。


講義で語られた「下手なうちから人前に出て修練する」という話が、そのまま実習の場にもつながっていました。


そして「笑いの行法」。

日常の愚痴を声に出し、笑い飛ばし、最後を「ありがとお~」で結ぶ。

最後には、合掌しながら、それぞれの呼吸の長さで「ありがとお~」と声を重ねていきました。

思想を頭で理解するだけではない。


身体を使い、声を出し、呼吸し、実際にやってみる。


それが綜医學講座の大きな特徴です。


※「手当て」や呼吸法等は、綜医學講座における養生・実践として紹介しているものです。疾病の診断や治療を目的とするものではなく、必要に応じて適切な医療を受けることが大切です。




超人になっても、その先がある


講義の最後、参加者からこんな趣旨の質問がありました。

「超人というのは、ある程度以上のところまで行った人をいうのでしょうか。それとも一つずつ段階を上がっていくものなのでしょうか」


林先生は、超人と呼ばれるほどの段階に達したとしても、それで終わりではないと答えられました。

周囲から見れば達人でも、本人にとっては、

「まだこんなもんじゃない」

のかもしれない。


90歳になっても、その先の作品をつくろうとする芸術家のように、次の10年を見ている人もいる。

そして林先生は、

「東洋日本のあり方においては、ゴールはないと。生きてる限り、生きてる限り成長を続けていく」

と話されました。


超人になれば完成するわけではない。

達人になれば終わるわけでもない。


生きている限り、その先がある。

だから明日が楽しみになる。

今回の「超人」という言葉の中で、最も大切なのは、このことなのかもしれません。




「自分にはここまで」と、誰が決めたのだろう


今回の講義を聞きながら、改めて考えさせられます。

私たちは、

「自分には何が足りないか」

を考えることには慣れています。


けれども、

「自分には、すでに何が与えられているのか」

を、どれほど考えているでしょうか。


子どもの頃から好きだったこと。

なぜか人よりも気づいてしまうこと。

気がつけば長く続けていること。

誰かから頼られること。

何度離れても、また戻ってきてしまうこと。

そこには、自分の天性や天分につながるものがあるのかもしれません。


そして、もう一つ。

「年齢的に、もう遅い」

「自分には無理だ」

「ここまでできれば十分だ」

と、自分自身に線を引いているものはないでしょうか。


もちろん、身体にも環境にも、それぞれの条件があります。

ただ、その条件とは別に、

自分自身が勝手に決めてしまった限界

があるとしたら。


その線を少しだけ越えてみる。


もう一度、何かを磨いてみる。

目の前の部分だけでなく、少し遠くから全体を見てみる。

身体を整え、感覚を磨き、考え方を磨く。


そうした日々の積み重ねの先に、今回語られた「超人への道」があるのだと思います。

「超人」という言葉が、遠い誰かの話ではなく、

自分自身に与えられた生命を、どこまで生かして生きるのか。

その問いとして残った、第17回綜医學講座でした。




綜医學講座について


今回の講義の最後に、林先生は綜医學講座について、単に健康のための方法や体操を学ぶだけではなく、

「哲学というか、考え方というか、あり方」

を追究していく場であると語られました。


身体を整えること。

心を磨くこと。

自分の生き方を考えること。


そして、人や社会、国がどうすればよりよくなっていくのかを考えること。

綜医學では、それらを別々の問題とは考えません。


「手当て」「言の葉」「長息」という実践と、日本思想・東洋思想・医学思想を往復しながら、人間と生命について学んでいきます。


次回の綜医學講座では、今回の「超人観」を前提として、さらに「霊魂観」へと学びを進めていきます。


今回初めて綜医學を知った方も、ぜひこれまでの講義レポートとあわせてお読みください。


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